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足利義明 あしかが よしあき (?~1538) 小弓足利家
 小弓公方。古河公方・足利政氏の子。早くから出家して僧籍に入っていたが、父・政氏と兄・高基の対立を機に還俗した。各地を放浪したのち、上総の真里谷恕鑑の支援を得て小弓公方を自称し、古河公方となった高基と対立した。その後、対外政策で恕鑑と対立。恕鑑の死後は真里谷家の家督相続に介入して北条氏綱と対立した。安房の里見義尭と結んで第一次国府台合戦で氏綱と戦うが、討死した。


足利晴氏 あしかが はるうじ (1508~1560) 古河足利家
 古河公方・足利高基の子。当時の古河公方は勢力としては衰退し、叔父・義明が小弓公方を称して対立するなど低迷していたが、政治的権威は有しており、その地位を利用して関東方面に勢力を伸ばしてきた北条氏綱の娘を娶って力を借り、義明を滅ぼした(第一次国府台合戦)。氏綱が亡くなり、氏康の代になると、北条家はさらに勢力を拡大、すると方針を一転して、北条家の台頭を阻止するため、山内、扇谷両上杉家と手を組み氏康と敵対した。しかし、河越夜戦で氏康に大敗。氏綱の娘との間にできた義氏に古河公方の地位を譲ることで助命され幽閉された。


足利義氏 あしかが よしうじ (1541~1582) 古河足利家
 古河公方。晴氏の子。母は北条氏綱の娘。河越夜戦の大敗で父・晴氏が幽閉されると、北条氏康によって古河公方に擁立された。しかし、所詮は傀儡にすぎず、情勢によって居城を移され、越相同盟後にようやく古河御所に戻れた。嫡子がなく、死後、古河公方は滅亡するが、豊臣秀吉のはからいで、娘・氏姫が、かつて敵対し滅ぼした小弓公方・足利義明の孫・国朝と結婚して喜連川家を興した。


上杉朝定 うえすぎ ともさだ (1525~1546) 扇谷上杉家
 関東管領職に就く権利を有した扇谷上杉家の当主。父・朝興の死により若くして当主となったが、北条氏綱に若輩さをつけ込まれ、居城・河越城を奪われた。以後は武蔵松山城を拠点に活動する。長年争ってきた山内上杉家の当主・憲政と和睦して河越城の奪還を狙うが、河越夜戦で討死し扇谷上杉家は断絶した。


太田資正 おおた すけまさ (1522~1591) 扇谷上杉家
 扇谷上杉家臣。軍略家として有名な太田道灌の親戚筋にあたる。三楽斎と号した。道灌に劣らない軍略家で、軍用犬を初めて実戦で使用したといわれる。河越夜戦で主君・上杉朝定が討死すると、山内上杉家に属し、山内上杉家が滅亡すると不本意ながら北条家に属した。上杉謙信が関東に侵攻すると、謙信に従い、以後は北条家との戦いに生涯を費やす。親北条派の長男・氏資に岩付城を追放されても反北条の姿勢は変えず、常陸の佐竹義重を頼って戦い続けた。小田原征伐が始まると小田原に参陣して豊臣秀吉に謁見。北条家の滅亡を見届けたが旧領復帰は叶わないまま亡くなった。


太田道灌 おおた どうかん (1432~1486) 扇谷上杉家
 扇谷上杉家の家宰(家老のような役職)。諱は資長。太公望の再来といわれた軍略家で、歌人としても名を馳せた。築城の名手でもあり、江戸城を築城したことでも知られる。享徳の乱(鎌倉公方と山内・扇谷両上杉が争った内乱)や長尾景春の乱(山内上杉家の家宰を巡る争い)で活躍した。特に長尾景春の乱では、的確な献策と常勝将軍ともいえる戦果で、関東管領・山内上杉家の分家に過ぎなかった扇谷上杉家を山内上杉家に迫る家格にまで押し上げた。しかし、卓越した才覚と名声が主君・上杉定正との確執を生み暗殺された。最後の言葉は「当方滅亡」(自分がいなければ扇谷上杉家は滅びるの意)だったという。


大森藤頼 おおもり ふじより (?~1503?) 扇谷上杉家
 扇谷上杉家臣。小田原城主。大森家は駿河国の土豪であったが、藤頼の祖父の代に鎌倉公方を助けて小田原周辺を拝領し、父の代になって扇谷上杉家に仕えるようになった。父から家督を継いだのは1494年頃といわれ、その翌年である95年に伊豆平定を成し遂げた伊勢盛時(北条早雲)の謀略にかかり小田原城を奪われたという。親交を結んだ盛時に箱根山中の鹿狩りの許可を出し、盛時が勢子(獲物の追い役)と称して入れた兵の奇襲によって城を奪われたというが、城を奪われたという結果以外、真意は不明。


太田康資 おおた やすすけ (1531~1581) 太田家
 太田道灌の玄孫。徳川家康の側室・お梶の父といわれる。太田家は扇谷上杉家の家臣だったが、父・資高の代から北条家に仕えるようになり、父の死後に家督を継いで遠山綱景富永直勝と共に江戸城代に任命された。武勇に優れ甲斐武田家との戦いで活躍したが、待遇の不満から同族・太田資正を介して上杉謙信に内応した。しかし、里見義尭と共に挑んだ第二次国府台の戦いで敗北。その後、庇護を求めて里見家臣・正木時忠の元に身を寄せた。


上杉憲政 うえすぎ のりまさ (1523~1579) 山内上杉家
 関東管領・山内上杉家当主。関東管領として、かなりの勢力を誇っていたが、河越夜戦北条氏康に大敗を喫してから次第に勢力を失い、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って落ち延びた。その後、関東管領職と上杉姓を景虎(謙信)に譲渡して隠居した。謙信死後、上杉家の家督争い「御館の乱」が起こると上杉景虎(北条氏康の子)を支持するが、窮地に立たされ、和睦のために上杉景勝のもとへ赴くが殺害された。


長野業正 ながの なりまさ (1491?~1561) 山内上杉家
 上野箕輪城主。関東管領・山内上杉家に属した猛将で、在原業平の後裔という。一時、武田信虎村上義清らによって信濃を追われた真田幸隆を保護したことでも知られる。河越夜戦での敗北後、関東管領・上杉憲政が越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って落ち延びた後も箕輪城に残り、憲政を保護してくれた景虎(謙信)に義理を立て武田家や北条家と戦った。12人の娘を周辺豪族に嫁がせて結成した「箕輪衆」を率いて武田信玄の上野侵攻を6度に渡って撃退し、「業正ひとりがいなければ、上野は我がものであったものを」と信玄を嘆かせたといわれる。その言葉通り、業正の病没後、箕輪城は武田軍によって落城した。


上杉定実 うえすぎ さだざね (?~1550) 越後上杉家
 越後守護。越後守護・上杉房能の娘を娶って婿となる。房能が権力の集中化をはかり、守護代・長尾為景と対立して敗死すると、為景に擁立され越後守護となった。為景が勢力を拡大すると、傀儡にすぎないことに不満を持ち、越後北部の国人・揚北衆らと共に為景を隠居に追い込んだ。為景の跡を継いだ晴景とは比較的良好な関係を保ったが、晴景の統率力のなさと、自身の伊達家との養子縁組の失敗から国内の混乱を招く。その混乱を晴景の実弟・景虎(のちの謙信)が収拾すると、景虎に期待を抱くようになり、晴景と景虎の対立を仲介して景虎に長尾家の家督を継がせた。1550年に跡継ぎなく病没、越後守護上杉家は断絶した。


江戸重通 えど しげみち (1556~1598) 江戸家
 常陸水戸城主。はじめは佐竹義重に従っていたが、北条家の攻勢が激しくなると佐竹、北条両家に自分を売り込んで領土を拡大した。しかし、家臣への負担が大きかったため、離反する家臣が続出し、衰退した。領地が隣り合っていた大掾家との対立が激しく、小田原征伐にはその大掾家を警戒して参陣できず、佐竹義宣豊臣秀吉への執り成しを頼んでいたが、江戸家討伐の大義名分を得る機会ととらえた義宣に黙殺され、小田原征伐後に義宣に攻められ、結城晴朝のもとへ落ち延びた。


小田氏治 おだ うじはる (1531?~1601) 小田家
 常陸の戦国大名。小田城主。小田家は室町時代から続く名家だが、氏治の時代には陰りが見え始め、結城政勝、佐竹義昭義重親子、上杉謙信らによって居城・小田城を何度も奪われた。しかし、そのたびに逃げ延び、結束の固い家臣団の力を借りて城を奪還した。小田原征伐の際にも小田城奪還を目指して佐竹家と戦ったため、小田原征伐に参陣した佐竹家と敵対したことと、参陣しなかったことを理由に改易された。その後、娘が結城秀康の側室になっていたことから結城家の客将として迎えられた。


菅谷勝貞 すげのや かつさだ (?~1575) 小田家
 小田家臣。政治、氏治の二代にわたって仕えた。1516年に常陸の国人・若泉家から土浦城を奪い、当初の城主だった信太範貞が亡くなると城主となった。智勇兼備の将として周辺諸国から恐れられ、小田家の主将として上杉謙信や佐竹家と戦い、政治が河越夜戦で古河公方・足利晴氏に味方して敗戦して以来、衰退しつつあった小田家を支え続けた。


菅谷政貞 すげのや まささだ (1518~1592) 小田家
 小田家臣。勝貞の子。土浦城主。父と同様、小田家に忠節を尽くし、度々、小田城を奪われる主君・小田氏治を土浦城に迎え入れて城の奪還に貢献した。土浦城が佐竹義重の軍に攻撃され、敗色が濃くなると、氏治を逃がして佐竹家に降る。しかし、氏治が北条家の援軍を得ると、戦わずして降伏し、氏治の傘下に戻った。


菅谷範政 すげのや のりまさ (1558~1612) 小田家
 小田家臣。政貞の子。土浦城主。父と共に小田氏治に忠節を尽くすが、小田原征伐に参陣しなかったことで小田家が改易になり土浦城を失う。しかし、小田家への忠節を浅野長政に認められ、のちに推挙され徳川家康の家臣となった。


佐竹義昭 さたけ よしあき (1531~1565) 佐竹家
 常陸の戦国大名。佐竹家17代当主。義重の父。常陸北部で地盤を固め、外征、婚姻政策で常陸統一を目指した。33歳の若さで隠居し、家督を子・義重に譲ったが、実権は持ち続けた。上杉謙信と結んで小田氏治から小田城を奪うなど、常陸統一まであと一歩というところまで迫ったが、35歳の若さで病没した。


佐竹義重 さたけ よししげ (1547~1612) 佐竹家
 常陸の戦国大名。佐竹家18代当主。陣頭に立って奮戦する姿は「鬼義重」「坂東太郎」と呼ばれ周辺諸国の諸将を畏怖させた。北は伊達政宗、南は北条氏政を相手にし、人取橋の戦いでは政宗をあと一歩のところまで追いつめ、氏政に対しては上杉謙信と結んで対抗した。政宗が摺上原の戦いで蘆名家を滅ぼすと苦境に立たされるが、ちょうど豊臣秀吉による小田原征伐が始まり、いち早く参陣することで所領を安堵され、54万石の大大名になった。関ヶ原の戦いのときには、すでに隠居し、当主は子の義宣になっていたが、義宣が西軍につこうとしたため反対した。結果、義宣の姿勢が曖昧なものになってしまい、それが西軍よりの態度ととられて改易されそうになるが、以前から誼を通じていた徳川家康秀忠親子に懇願し、秋田20万石に減封されるも家名を存続できた。


佐竹義宣 さたけ よしのぶ (1570~1633) 佐竹家
 常陸の戦国大名。佐竹家19代当主。義重の子。小田原征伐が始まる前年に父・義重から家督を譲られるが、実権は握られていた。当時、佐竹家は伊達政宗北条氏政の2大勢力に挟まれ苦境に立たされていたが、小田原征伐が始まると、義重と共にいち早く参陣することで54万石を安堵された。関ヶ原の戦いでは石田三成と親交があったため、西軍につこうとするが、父の反対もあって積極的な行動に移せずに曖昧な態度をとってしまう。戦後、徳川家康秀忠、それぞれに謁見して謝罪と家名の存続を懇願し、秋田20万石と減転封となってしまうが、改易は免れた。家康に皮肉もこめて「律義者」と評された。


成田長泰 なりた ながやす (1495?~1574) 成田家
 武蔵忍城主。初めは関東管領・上杉憲政にしたがっていたが、憲政が河越夜戦で敗北して没落すると北条氏康に従った。上杉謙信が関東へ侵攻してくると、その勢いに押され、小田原城包囲に参加する。その後、謙信と不和となり対立。謙信に忍城を攻められ、家督を子・氏長に譲って隠居することを条件に降伏を許された。


成田氏長 なりた うじなが (1542~1596) 成田家
 武蔵忍城主。長泰の子。上杉謙信が関東侵攻した際、父・長泰が謙信に敗北して隠居させられたため、家督を継いだ。そのため上杉家に属したが、越相同盟が結ばれると謙信の同意も得て北条家臣となった。小田原征伐の際は小田原城に詰めていたため、忍城の守備は成田長親ら家臣が担当した。北条家滅亡後、身柄は蒲生氏郷に預けられたが、奥州仕置きでの武功や娘・甲斐姫が豊臣秀吉の寵愛を受けたことで下野烏山2万石を与えられた。


成田長親 なりた ながちか (1546~1613) 成田家
 武蔵忍城主・成田氏長の従兄弟。小田原征伐の際、主君・氏長は小田原城に詰めたため、父・泰季が忍城の守備についたが、豊臣軍到着前に病死、そのため、急遽指揮をとることになった。石田三成の水攻めにあいながらも徹底抗戦の姿勢を見せ、三成が築いた堤の不首尾もあって小田原落城まで耐え抜き、氏長の説得によって降伏開城した。その後、氏長とは不和となり尾張に移り住んだ。


結城晴朝 ゆうき はるとも (1533~1614) 結城家
 下総の戦国大名。結城家の所領は北条家、佐竹家、宇都宮家に囲まれ常に争いの場であったが、上杉謙信と結んだ佐竹、宇都宮に対し、晴朝は北条家と結んでこれに対抗していた。しかし、謙信が関東管領職についてからは上杉家と結び佐竹、宇都宮と共に反北条の姿勢を示した。豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、いち早く参陣して所領を安堵される。さらに家名を保つために秀吉に接近。秀吉の養子になっていた徳川家康の次男・秀康を養子に迎えて結城家の跡取りとした。だが、関ヶ原の戦いののち、越前に領地替えとなった秀康は松平姓に戻ってしまい、養子としていた秀康の子・直基も晴朝の死後に松平姓に戻ったため、晴朝が下総結城家の最後の当主となってしまった。


里見義尭 さとみ よしたか (1512~1574) 里見家
 安房の戦国大名。北条氏綱の力を借りて、宗家当主・義豊を殺害して家督を継いだ。その後、上総に勢力を誇った真里谷家の家督争いに介入して氏綱と対立する。第一次国府台合戦でも小弓公方・足利義明と同盟して氏綱と敵対するが、積極的な参加はせず、戦後、真里谷家の没落によって空白地となった久留里城と大多喜城を奪って上総にも勢力を広めた。北条氏康(氏綱の子)の猛攻に対しては上杉謙信と結んで対抗し、度々攻撃を防いだが、家督を子・義弘に譲ったのちの第二次国府台合戦では惨敗して、久留里城を奪われるなど苦戦を強いられた。しかし、義弘の活躍もあって久留里城奪還に成功し、その後は下総にも進出するなど、里見家の全盛を築いた。


里見義弘 さとみ よしひろ (1530?~1578) 里見家
 安房の戦国大名。義尭の長男。永禄年間(1558~1570)の初めごろに家督を譲られたとされる。家督を譲られてまもなく起きた第二次国府台合戦では北条氏康に惨敗し、居城・久留里城を奪われ苦戦を強いられたが、すぐに城を奪還、三船山合戦で北条氏政(氏康の子)に大勝して勢力を回復した。上杉謙信と結んで北条家に対抗していたが、越相同盟が結ばれ、謙信の助力が得られなくなると、次第に北条家の圧力に抗しきれなくなり、最後は和睦して領土の保全を図った。


里見義頼 さとみ よしより (1543~1587) 里見家
 安房の戦国大名。義尭の次男。男子に恵まれなかった兄・義弘の養子になった。義弘が長年戦ってきた北条家と和睦すると、北条氏政の娘を娶った。のち義弘に梅王丸が生まれると、領地の分配を約束されたが納得せず、義弘の死後、梅王丸を出家させて領地全土を支配した。天正壬午の乱では北条家を助けたが、のち不和となって再び北条家と敵対し、豊臣秀吉に接近した。


土岐為頼 とき ためより (?~1583) 里見家
 上総の有力国人。万喜城主。安房里見家に従い、自分の娘を里見義尭の後室として入れた。美濃・斎藤道三に追放された土岐頼芸とは同族で、一時、頼芸の受け入れもしている。第二次国府台合戦では里見勢の主力を率いたが、北条家に通じて戦線を離脱、里見家が敗北すると以後は北条家に従い里見家と戦った。義尭の正室となった娘は、義弘の生母で離縁もされなかったため、娘と孫を敵に回すことになってしまった。


正木時茂 まさき ときしげ (1514~1561) 里見家
 安房の有力国人。槍術に優れていたことから「槍大膳」の異名をとった。里見義尭の挙兵に従い、里見宗家の当主・義豊を討って義尭に家督を継がせるなど義尭の与力として活躍し、第一次国府台合戦にも里見方として参戦した。その後、上総に勢力に誇った真里谷家が没落すると、大多喜城を奪って居城とし、東上総の軍権を与えられるなど義尭の信頼が厚かった。1561年、里見義弘に従って上杉謙信の小田原城攻めに参陣したが、まもなくして亡くなった。


正木時忠 まさき ときただ (1521~1576) 里見家
 安房の有力国人・正木時茂の弟。安房里見家に仕えて東上総の軍権を与えられた兄・時茂を補佐した。兄の死後は、正木家の中心人物として活動し、第二次国府台の戦いでは家名を守るために劣勢であった里見家を離れ北条家に与した。北条家が甲斐武田家との戦いで支援が得られなくなると、再び里見家に帰参した。


真里谷恕鑑 まりやつ じょかん (?~1534) 真里谷家
 上総の戦国大名。各地を放浪していた古河公方・足利高基の弟・義明を小弓公方に擁立して権勢を誇った。北条氏綱と扇谷上杉家が武蔵を巡って争い始めると、扇谷上杉家を支援して勢力を広げ、真里谷家の全盛を築く。しかし、その後は外交政策をめぐって義明と対立。里見家の家督相続に介入した際には、一族をまとめきれず、死後、それがきっかけで家中が分裂してしまい、真里谷家衰退の遠因となってしまった。


真里谷信隆 まりやつ のぶたか (?~1551) 真里谷家
 上総の戦国大名。恕鑑の庶子。父・恕鑑が病没すると庶子であったが家督を継いだ。しかし、父と対立していた小弓公方・足利義明と安房の里見義尭が恕鑑の嫡子で異母弟の信応を推したため、北条氏綱の協力を得て信応と家督を争うことになる。一度は敗れて家督を奪われるが、第一次国府台戦いで足利義明が討死すると、反撃して家督を奪い返した。その後、信応が里見義尭を頼ったため、真里谷家は北条家と里見家の介入を受けることになり衰退した。


真里谷信応 まりやつ のぶまさ (?~1552) 真里谷家
 上総の戦国大名。如鑑の嫡子。父・如鑑の死後、家督は庶兄・信隆が継いだが、小弓公方・足利義明の後ろ盾をえて信隆から家督を奪った。第一次国府台戦いで足利義明が討死すると、北条氏綱に属した信隆に再び家督を奪われる。その後は里見義尭に属して信隆と対抗した。しかし、義尭が真里谷家を侵略しはじめたため、信隆の子・信政を助けて真里谷家の盛り返しをはかるが、信政ともども義尭によって自害に追い込まれ真里谷家は没落した。


小笠原長時 おがさわら ながとき (1514~1583) 小笠原家
 信濃の戦国大名。信濃守護職。林城主。信濃四大将のひとり。小笠原流弓馬術礼法宗家。1542年、武田信玄が信濃へ侵攻してくると、これと戦うが敗退を重ね領地を徐々に失っていく。1548年の上田原の戦いで信玄が村上義清に敗れると、義清と結んで失地の回復を狙うも、塩尻峠の戦いに敗れ、1550年には居城・林城も追われた。その後、上洛して三好長慶を頼り、足利義輝と謁見して越後の上杉謙信の助力を得るなど、信濃復帰を目指したが叶わず、最後は会津の蘆名盛氏に客将として招かれ同地で没した。家臣に殺害されたという説がある。


小笠原貞種 おがさわら さだたね (?~?) 小笠原家
 信濃守護職・小笠原長時の弟。号は洞雪斎。1542年からの武田信玄による信濃侵攻では兄・長時と共に信玄と戦うが敗れ、共に京都へ逃れた。その後も長時と行動を共にし、越後の上杉謙信の助力を得て信濃回復を目指した。謙信が亡くなると兄・長時は上杉家を離れたが、貞種は残り、謙信の跡を継いだ景勝の庇護を受けた。天正壬午の乱で景勝に擁立され深志城を奪還するが、家康に擁立された長時の子・貞慶が攻め寄せると城を明け渡し、再び越後へ落ち延びた。


小笠原貞慶 おがさわら さだよし (1546~1595) 小笠原家
 小笠原長時の三男。幼い頃に父・長時が武田信玄に敗れ信濃を追われると、共に京へと落ち延びた。長時と共に三好長慶上杉謙信を頼って旧領復帰を目指すが叶わず、謙信死後は家督を譲られ、足利義昭織田信長を頼るも、やはり旧領復帰は叶わなかった。信長死後は徳川家康に仕え、天正壬午の乱の時に、ようやく深志城を奪還する。その後は豊臣秀吉に仕えたが、秀吉が追放した尾藤知宣を庇護したため改易となり、再び家康に仕えた。


小笠原秀政 おがさわら ひでまさ (1569~1615) 小笠原家
 小笠原貞慶の長男。小笠原家は信濃守護職の家柄だが、生まれた時には既に没落していた。本能寺の変後、父・貞慶が徳川家康の家臣になるために人質に出され、家康の重臣・石川数正に預けられた。しかし、1585年に数正が徳川家を出奔。その際、豊臣秀吉に引き渡され、小笠原家は豊臣家臣となる。その後、父・貞慶が秀吉の怒りを買い改易されると、再び家康の家臣となり、秀政は3万石を与えられた。関ヶ原の戦い後は信濃飯田5万石、1613年には信濃松本8万石を拝領して小笠原家念願の旧領復帰を果たすが、1615年の大坂夏の陣で毛利勝永の猛攻を受け負傷し、その傷がもとで亡くなった。


木曽義康 きそ よしやす (1514~1579) 木曽家
 南信濃の国人。信濃四大将のひとり。武田信玄の信濃侵攻に対して、村上義清小笠原長時と結んで対抗したが、義清、長時が信濃を追われると降伏して武田家臣となった。美濃との国境近くに勢力を誇った木曽家を信玄は重要視し、信玄の娘を子・義昌が娶って御親類衆に加わるなど、外様としては破格の厚遇を得た。


木曽義昌 きそ よしまさ (1540~1595) 木曽家
 南信濃の国人。義康の子。木曽家は、父・義康の代に武田信玄に臣従し、武田家中では新参者だったが、美濃との国境近くに勢力を誇ったことから重要視され、義昌は信玄の娘を娶って御親類衆に列せられた。しかし、信玄が亡くなり、武田家が衰退し始めると、戦費や新府城築城の負担から勝頼を見限って織田信長の調略に応じ、甲州征伐のきっかけを作る。本能寺の変後は、一定の独立性を保っていたが、小牧・長久手の戦い後に徳川家康の傘下に組み込まれ、家康の関東移封にも従い、下総国に1万石を得た。


諏訪頼重 すわ よりしげ (1516~1642) 諏訪家
 信濃の戦国大名。上原城主。諏訪大社大祝。信濃四大将のひとり。甲斐を統一した武田信虎の娘(信玄の異母妹)を娶って同盟し、信虎や村上義清と共に小県郡に侵攻して海野一族を上野国へ追放した。その後、関東管領・上杉憲政と独断で領地の割譲を行い、それが信虎を追放して武田家当主となった信玄に盟約違反とみなされ攻められる。信玄に上原城を攻め落とされると降伏。甲斐に送られ幽閉されるが、最後は自刃に追い込まれた。娘(諏訪御料人)は、信玄の側室となり勝頼を産んだ。


高遠頼継 たかとう よりつぐ (?~1552) 高遠家
 信濃高遠城主。高遠家は諏訪大社大祝・諏訪家の庶流。はじめは諏訪頼重に従っていたが、頼重が武田信玄と敵対すると、諏訪本家の家督を継ぐことを条件に信玄に味方して頼重を滅ぼした。その後、信玄が家督相続の約束を反故にしたため、信玄と戦う。しかし、敗れて降伏し城を明け渡した。上田原の戦いで信玄が敗北すると、混乱に陥った諏訪へ派遣されるが、事態が収拾すると、諏訪における名声の高さを信玄に恐れられ自害させられた。


村上義清 むらかみ よしきよ (1501~1573) 村上家
 北信濃の戦国大名。信濃四大将のひとり。信濃制圧を目指す武田信玄の侵攻を2度も撃退した猛将として知られる。信玄に勝利した戦いは、いずれも圧勝で、上田原の戦いでは信玄の両翼・板垣信方甘利虎泰を討ち取り、砥石城の戦いでは横田高松を討ち取っている。しかし、信玄の家臣となっていた真田幸隆の調略によって砥石城を落とされ、それを機に次第に衰退し、最後は越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って落ち延びた。この村上家の没落により、武田領と上杉領が接することになり、これが5回にも及ぶ川中島の戦いに繋がっていくことになる。景虎のもとでは優遇されたが、旧領復帰を果たせないまま信玄に先立ち病没した。


室賀正武 むろが まさたけ (?~1584) 室賀家
 信濃の国人。はじめは甲斐武田家に従ったが、武田家が滅亡すると天正壬午の乱を経て最終的には真田昌幸に従った。だが、昌幸に従うのは本意ではなかったらしく、徳川家康に接近すると昌幸の殺害を命じられる。昌幸に上田城へ招待された際に殺害計画を実行しようとしたが、内通者によってすでに知られており、逆に謀殺された。